ボスニア・ヘルツェゴヴィナのメディア《Bljesak.info》に片山代表理事へのインタビュー記事が掲載されました

クロアチアの隣国ボスニア・ヘルツェゴヴィナのモスタルに拠点を置くインターネットメディア《Bljesak.info》に、片山代表理事へのインタビュー記事が掲載されました。

塙 保己一 ワールドムーブメント」は、今年夏にクロアチアで始まり、6都市での上映会が開催されましたが、この度、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの2都市(モスタルおよび首都サライェヴォ)での上映会が開催されました。
同国でも、当協会の活動は、日本との交流の深化や観光業における可能性など、多くの方からの注目を集めています。

日本人の母とクロアチア人の父の間に生まれた彼の人生は、これら2つの国の美しさを文化的要素を通して伝える一連のプロモーション活動のようなものです、その一環で、彼はモスタルを訪れました。今回の上映会の主催は、文化や映画など、さまざまな分野で両国の友好・協力関係の発展に寄与している「日本クロアチア協会」です。

「文化というものに良し悪しはなく、ただそこに文化や考え方の違いがあるだけです」と語るのは、幼少期に視力を失ったにもかかわらず、日本の文化遺産の保存に生涯を捧げた男(塙 保己一)のドキュメンタリーを掲げて、日本からチームを率いてモスタルを訪れたエドワード・トリプコヴィッチ・片山氏です。
エド(片山の愛称)は日本人の母とクロアチア人の父の間に生まれ、クロアチアと日本、2つの国の美しさを文化的要素を通じて伝え広める活動に人生を捧げており、今回クロアチアでのプロモーションの後、モスタルを訪れました。
11月21日(木)18時より、(モスタルの映画館)Code Hubにて「共鳴する魂 ー 塙 保己一 伝」をご覧いただけます

エドへのインタビューを続けてお届けします。


Bljesak.info(以下、聞き手):あなたのこれまでの人生について詳しくお話しください。どこで生まれ、どのような流れで日本に暮らすようになったのですか?

片山代表理事(以下、片山):私はパリで生まれました。母は”光の街パリで児童心理学を学ぶ日本人で、父は観光ビザで(パリを)訪れたクロアチア人でした。彼らが出会ったとき、母親は日本語、英語、フランス語を話し、父親はクロアチア語とドイツ語を話していたため、両親は共通の言語がありませんでした。
フランスの首都で人生の最初の数年を過ごした後、私たちはカナダのトロントに移り住みました。(トロントは)当時、多くの人にとって新しい”黄金の地(エル・ドラド)”であった街でしたが、私たちのカナダでの”冒険”は長くは続かず、1年半後、ヨーロッパ大陸のザグレブに戻り、最初は祖父と一緒に暮らしました。
その数ヶ月後、私たちは東京に移り住み、私は日本の小学校の1年生になりました。私は日本語を少ししか話せませんでしたが、他の子どもたちとのコミュニケーションは言葉だけで成り立っているわけではありませんでした。
1年半の日本での生活を経て、私たちはその後再びザグレブに戻り、ザグレブで小学校を卒業します。これにより、私は日本側よりもクロアチア側に少し傾くようになりました。

聞き手:成長する中で、異なる文化をどのように体験し、それらがあなたをどのように形づくりましたか?

片山:覚えていませんが、両親が言うには、最初はフランス語を話していたが、その後(フランス語を)忘れてトロントの友達と英語を話し始め、そして(英語を)忘れて、今度はクロアチア語を学んだ、と。
それぞれの母国語を話す両親がいることで、新しい言語への適応が認められ、またそれぞれの言語に加えて自国の文化、伝統、精神を伝えてくれたという事実が、両親双方からの愛によって、異なる大陸にある2つの国の2つの文化を継承し、培う機会を私に与えてくれたといえます。
子どもの頃に頻繁に引っ越しをし、国や言語、学校が変わる中で、今でも素晴らしい関係を築いている多くの友人たちに出会うことができました。そのうちの何人かとは、40年以上も友情が続いています。
子どもの頃に自然と培われたもうひとつの価値観としては、私が非常に重要だと考えているのは家族です。国、言語、環境の頻繁な変化、そしてそれらがもたらすあらゆる課題は、私たち全員が、いかなる場合にも揺るがず、そして私たちが私たちであることを許す、家族の核をつくりだしてくれました。

聞き手:初めて日本を訪れたのは6歳のときで、その20年後に2回目だったのですか?

片山:はい。初めて訪れたときは、兄と私は、それまで母としか話さなかった日本語が流暢とはほど遠いことに気づき、学校や友達から、多くの日本語を学びました。日本は現代でも、他の国にはない特徴がたくさんある国なので、40年以上前の日本の学校のクラスに外国人がいるのは珍しく、私は彼ら日本人の子どもたちとは”違う”とからかわれていました。
2回目の訪問では、私の日本語は上達し、最初の滞在時のような言語の壁はなくなりましたが、ヨーロッパの文化には存在しない多くの文化的および社会的な違いに接し続けることになりました。文化に良し悪しというものはなく、ただそこに文化や考え方の違いがあるだけです。プラットホームで列になって並んで待つこと、地下鉄車内では携帯電話で話さないこと、集団が満足するかどうかを常に考慮する必要性、空気を読むという不文律、そしてその他の多くの文化的な違いは、20年以上前には目新しいものでしたが、私はこれらの多くの違いに適応し、今ではこれらが私の生活の一部になっているとも言えるでしょう。

聞き手:クロアチアと日本との交流活動にどのようにして関わるようになったのですか?

片山:2002年のサッカーワールドカップの後、東京のクロアチア大使館に連絡を取り、自己紹介をし「何かお手伝いできることがあれば、皆さんのお役に立ちたい」とお伝えしました。大使が私を受け入れ大使館のメンバーに紹介してくれたことや、当時大使館には日本語とクロアチア語を話せるスタッフがいなかったことから、大使館が関わる多くのプロジェクトに参加する機会を得ることができました。
私が初めて参加したクロアチアと日本に関わる大きなプロジェクトは、クロアチア共和国としてパビリオンを出展した2005年の愛知万博でした。プロジェクトの責任者はクロアチア外務省の担当者で、彼が東京滞在中に、ザグレブで働いているため主催者との会議をすべてこなすことはできないので、日本のクロアチア館のクロアチア共和国代表として参加しないかと提案されました。
2004年から2005年3月の万国博覧会の開会まで、クロアチア共和国代表として活動していましたが、会期中には外務省の代表が来日したため、広報や観光振興の責任者の役割を引き継ぎました。
日本でのクロアチアのプロモーションが成功し、翌年に2倍の日本人観光客がクロアチアを訪れたことにより、2つ目の大きなチャンスが巡ってきました。クロアチア政府観光局が日本に駐在員事務所を開設することを決め、駐在員事務所のディレクターの役職を授けてくれました。

聞き手:プロモーション活動は続き、ボスニア・ヘルツェゴヴィナとも最初のつながりができました。このことについてお話しください。

片山:2005年の愛知万博の後、私はパリに戻り、サッカー用品を販売する家族経営の店で1年間働きましたが、愛する家族のいるパリを愛しているにもかかわらず、変化が必要だと感じ、ザグレブに行くことを決め、そこでドキュメンタリーやコマーシャルや映画の制作を担うプロダクションのアシスタントプロデューサーとして働き始めました。 ザグレブに来て数ヶ月後に、日本にクロアチア政府観光局の東京事務所を開設しないかと提案され、東京に戻り、現在に至ります。
クロアチアは愛知万博で素晴らしい宣伝をしましたが、クロアチアのイメージはまだ、危険で、紛争中で、不安定で、ロシアに近い…つまり、こうした不安定な共産主義の国というイメージから、クロアチアのイメージを、地中海の文化と気候に恵まれた、多くの島々をたたえ、今日に至る革新をもたらした多くの発明家をうみ、困っている人々を見捨てない国民性の安全な国、多様で豊かな文化遺産を持つ国といったイメージに書き換える必要がありました。
クロアチアとその他の国を訪れる旅行プランには、ほぼ全てにモスタル、場合によってはサラエボを訪れるプランが含まれており、ボスニア・ヘルツェゴヴィナは目的地のひとつとして日本の旅行会社のプログラムに必ず掲載されています。ボスニア・ヘルツェゴヴィナは日本で知られているよりはるかに多くのものを提供しており、認知度が向上し、より多くの日本人観光客が訪れる可能性があると私は信じています。

私は個人的に”ボスニアのピラミッド”を訪れましたが、ここでも優れた観光プロモーションができると信じています。日本だけでなく、世界中からたくさんの観光客が訪れることでしょう。

聞き手:2021年にクロアチアと日本の文化交流を促進することを目的に「日本クロアチア協会」を設立されましたが、この協会を設立したきっかけは何でしたか? 「第1回 日本映画祭」の反響はいかがでしたか?

片山:そうですね、15年以上にわたり日本におけるクロアチアのプロモーションを続けてきた私は、文化交流が真の意味を持つのは、双方向に作用するときのみであり、それにより初めて真のコミュニケーションが生まれ、理解、受容、好奇心、寛容に基づいた関係が生まれるのだと気づきました。
このような考えに基づき、私たちは、両国間の既存の関係を深め改善するために、「日本クロアチア協会」を設立しました。私たちは、両国において、映画祭をはじめ、他にも様々な交流活動を実施しています。
2021年に初めての映画祭を東京で開催し、クロアチア映画を上映しました。昨年は、クロアチアと日本の国交樹立30周年を記念し、(ザグレブで)「第1回 日本映画祭」を開催しましたが、驚いたことに観客からはもちろん、クロアチアのメディアからも大きな反響を呼びました。日本映画の鑑賞を目的に多くの一般市民の方に来場いただきましたが、最も多くの来場者を集めたのは日本のアニメでした。

聞き手:「日本クロアチア協会」の重要なプロジェクトのひとつとなっている「塙 保己一 ワールドムーブメント」について、この活動とその重要性について詳しくお話しいただけますか?

片山:塙 保己一は300年前に生まれ、7歳で失明しましたが、それでも彼は670もの著作を残し、それらは日本の(昭和)天皇によって日本の宝物として宣言されました。 (塙 保己一は)ビジョン、粘り強さ、そして意志によれば、限界など存在しないが、しばしば自ら限界を設定してしまうのだ、いうことを示した人物です。
昨年10月、私はこの映画のエグゼクティブプロデューサーと出会い、初めて塙保己一についての話を伺いました。昨年9月に制作されたこのドキュメンタリーを見て、ちょうど開催予定であったザグレブでの「第1回 日本映画祭」は、日本文化の豊かさを示すだけでなく、人々が自らを信じ、ビジョンを持ち、粘り強くあり続ければ夢を達成したり、夢に近づくことが可能である、ということを教えてくれるこのドキュメンタリー映画で幕を開けることにしました。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナが「塙 保己一 ワールドムーブメント」を実施する2番目の国となることを大変嬉しく思っており、これらの活動を通じて、ボスニア・ヘルツェゴヴィナと日本の関係をより良く、より深くすることに貢献できると信じています。
モスタルとサラエボの地元機関からも支援を受け、私たちの取り組みが有用であると認められたことは、光栄で喜ばしいことです。

Blijesak.info掲載のインタビューより翻訳


Bljesak.info

下記リンクに原文が掲載されています。